真田丸-第1話感想-おまけ-武田勝頼様を全力で擁護する回

武田勝頼様擁護運動-勝頼様は有能だ

武田信玄時代隆盛を誇った武田家を家督相続から10年足らずで滅亡させた。

という風に語られることが多い勝頼様。

わたしは武田勝頼様が大好きなので、全力で擁護記事を書きます。

趣味の世界なので、それは違うとかあると思いますがご容赦を・・・

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戦国武将の中で一番のお気に入り

わたしは『信長の野望』というゲームをシリーズの半分程度プレイしています。

戦国時代の戦略シュミレーションで要は国取りゲーです。

国力を豊かにし、多くの兵士を雇い、優秀な人材で兵を率い、戦争を仕掛け

国をとるというゲームです。

最近のシリーズだと、『天道』というシリーズがあります。

この真田丸第1話のような1582年1月スタートで、

武田勝頼様でプレイできるものがあります。

正直言って初心者には無理ゲーです。

開始半年で織田軍・徳川軍・北条軍が3方向から同時に攻めてきます。

開始時で単純な総兵力の比較です。

織田家 130000人程度

武田家 25000人程度

徳川家 23000人程度

北条家 30000人程度

まあ織田家は西にも敵がいるので、130000人全部が来るわけではないですが、

徳川家は織田家と同盟しているので、敵が武田しかいません。

全部攻めてきます。

北条家も周りに大した敵がいないので、やはり全力で攻めてきます。

あの手この手で、一方の侵攻を遅らせ各個撃破する。

序盤から勝頼様を生かすための壮絶な戦いが楽しめます。

この序盤の窮地を勝頼様の個人能力の高さで補い、戦況を好転させて、

やがて天下統一を目指します。

このプレイを何十回となくやっています。

それぐらい好きです。

勝頼様の複雑な出生から家督相続

勝頼様は出世からして、悲劇の運命から逃れられないものでした。

勝頼様の父は当然信玄公ですが、母は諏訪御寮人といい、父信玄が

長野県に侵攻するにあたり最初に標的になって滅ぼされた諏訪家の

姫です。

滅ぼした家の姫を嫁に側室に迎えるという外道なことを信玄公は

しています。

まあ、当時ではそんなに外道でもないんでしょうが。

目的は、攻め取った諏訪家の姫を迎え、彼女との間に子ができれば

その子を諏訪地方の領主に据えることで、諏訪地方の支配の名目

が立ちます。戦国時代ではよくあることです。

こうして生まれたのが勝頼様でした。

こうした背景からか、勝頼様は最初は武田性を与えられておらず、

諏訪勝頼と名乗っていたそうです。

あくまで諏訪家の当主としての位置づけでした。

そもそも勝頼様は4男なので武田家を相続する順位は低かったのです。

一方、本来家督を継ぐはずだった信玄の嫡男義信は謀反の嫌疑で父

から切腹を申し付けられてしまいます。

桶狭間の戦い以後衰退した今川家に対する戦略で意見の相違があった

ことが原因だといわれています。

嫡男が切腹してしまい、二男は盲目で出家、三男は幼くしてなくなっているので

順位的に勝頼様が次になってしまいました。

ここで問題になるのが、諏訪家当主たる勝頼様が武田家を継ぐことの正当性です。

武田家は家臣達と複雑に縁戚関係を結んでいるので親族衆の力が強い家でした。
そのため、家督相続を家臣達に納得させるには出自含めて正当性が必要でした。

とはいいつつも、順番から言って勝頼様であることは確か。
しかし、親族衆は諏訪家の出であることが気に入らない。
そこで信玄公は、勝頼様の子、信勝を武田家の正当な後継者とし、
勝頼様を信勝が一人前になるまでの後見役として指名しました。

名目にこだわる武田家中の風潮から言って勝頼様は正当な後継者とは
認められなかったわけです。

そのような曖昧な状態で、1573年に信玄公は死去します。

相続後の活躍から衰退へ

さて家督相続した勝頼様

自分が名目上当主でないことを払しょくするため、実力を家中に示す必要がありました。

家督相続後の勝頼様はその能力を示すかのごとく、積極的に外征します。

岐阜東部にある明知城。

勝頼様は信長の援軍が来る前にこの城を落としてしまいます。

明知城まで信長の本拠地、岐阜城の方が圧倒的に近いにもかかわらずです。

この時、織田軍は一部が山の中に引きこまれ、武田軍に散々にやられたそうです。

この時信長は、武田を攻めるときには木曽地方をなんとかする必要性を認識したそうです。

これが木曽義昌の調略につながっているのかもしれませんね。

明知城を落とした勝頼様は静岡西部にある、高天神城を攻めます。

ここは、父信玄でも落とせなかった堅固な城で、ここを落とせば
勝頼様の権威は大きなものになります。

そして見事に落としてしまいました。

この時期、勝頼様率いる武田家は最大の領土をもつようになりました。

しかし、破竹の勢いは長く続きませんでした。

おそらく歴史の授業で誰もが耳にしたことのある

長篠の合戦が起こります。

ここで、勝頼様は織田家の鉄砲隊に散々にやられたとたいていは習いますが

実際には、織田軍が野戦陣城(砦のような簡易防御施設)を構築し、兵士数と
地形の利を生かしたことで、大勝利を収めたそうです。

鉄砲も多く使われたことは確かなようです。

野戦陣城の構築は当然武田方にも伝わっていました。
決戦前、勝頼様も家臣達に織田家との決戦は避けるべきだと進言されていました。

ただ、勝頼様としてはそこで引くわけにはいかなかったのでしょう。

目の前に対峙しておきながら、戦わずに引いたら、それはそれで、
武田家の劣勢を内外に示し、ひいては勝頼様の支配の権威にも影響したでしょう。

行くも地獄、引くも地獄であったわけです。

結果はご存じのとおり、武田家が大敗し武田家の勢力は大きく衰退します。

戦国チート上杉謙信と武田家復活の機会

長篠合戦後、武田家は衰退し織田家は大きく勢力を伸ばしますが、織田家の前に
最大最強の敵が立ちふさがります。
戦国時代のチート野郎、上杉謙信です。

注:上杉謙信
生涯の合戦の中で負けらしい負け戦がただの1つもなく、
しかも合戦の大半が兵力数では劣勢の状況で負けない。
まさに戦国チート。
ちなみに『信長の野望』シリーズでは全シリーズでまさにチートの戦闘力を
誇り、謙信率いる部隊と戦うと相手の兵士が『溶ける』と形容されるほど
すさまじい強さで相手を蹂躙していく。
その強さは相手の能力にもよるが、相手の半分の兵力があればまず勝てるほど。
相手が弱い武将なら、4分の1くらいでも大丈夫な場合もある。

上杉謙信は北陸方面から織田領にせまります。

信長は、柴田勝家を大将とする羽柴秀吉・明智光秀など織田家オールスターズで
これに対抗、兵力は5万とも6万ともいわれています。

でもやっぱり上杉軍は相手より少ない兵力で大勝してしまいますw

織田家はこのときかなりピンチでした。

一方勝頼様は織田家が上杉家の対応にてんてこ舞いな状況で、
徳川家を攻めていたようです。
このころの徳川家は織田家の支援なしでは、とうてい武田家に対抗できる
勢力ではなかったのです。

家康はひきこもり作戦で、持久戦を展開します。
家康は1582年に武田家を滅ぼす戦いまでは一貫してこのひきこもり作戦
を継続しています。

上杉家は織田軍に大勝したあといったん本拠地の越後(新潟県)にひきかえし
再度、織田家侵攻の準備を整えようとしていました。

その最中、1578年に上杉謙信は病没します。

上杉謙信も後継者を明確に定めずに家督争いが勃発しました。

織田家は窮地を脱しました。

上杉謙信の死去により、勝頼様は勢力を盛り返す機会を逃しました。

外交政策の失敗-三方が敵に

上杉謙信亡きあと、上杉景勝と上杉景虎が家督争いを繰り広げます。

この時の勝頼様は北条家から姫を正室に迎え同盟を結んでいました。

上杉景虎は北条家当主、北条氏政の弟で上杉謙信の養子に入っていました。

武田家は北条家の同盟関係から最初は北条家とともに上杉景虎を支援していました。

まああたりまえです。

勝頼様はいったん景勝・景虎との和睦をまとめ本拠地に引き返します。

だが、和睦はすぐに決裂し再び両者は争います。

武田家の支援を失った景虎は結果的に負け、景勝が勝利しています。

このとき、武田家は景勝と和睦していますが、北条家との同盟は手切れとなります。

これで、武田家は織田家・徳川家・北条家に囲まれる状態になりました。

そうして、『真田丸』第1話の冒頭の状況となっていきます。

敵に囲まれてから、勝頼様は3年ほどなんとか持ちこたえていますが、

敵の嫌がらせのようなヒットアンアウェイの戦略により、軍事費のみかさみ

武田家は疲弊していきます。

織田・徳川方は武田家を警戒し一気に攻めず、武田領まるごと国力を疲弊させて

いく作戦にでました。

軍事費がかさむと当然家臣や、領民への負荷が大きくなっていきます。

それがだんだん不満へと変わっていきます。

いかに有能であろうとこの状況は厳しいです。

これが、木曽義昌をはじめとする家臣たちの裏切りにつながっていくのです。

以後は、真田丸第1話の通り滅亡への道へとひた走ります。

武田家内部のどうしようもない状況

武田家は外征や外交の失敗で滅んだように見えますが、要因はそれだけではありません。

内部の統率のとれなさが滅亡につながったとも言われています。

嫡子信勝の後見役として、家督相続した勝頼様。

このことは、家臣たちは『外様の諏訪家の出で、お前はあくまで後見役だろ?』という扱いを勝頼様にします。

また何かにつけて『信玄様だったらこうだった』と勝頼様の方針に文句をつけます。

およそ家中の統率がとれる状況ではありません。

勝頼様は実力で権威を高め、家臣たちの文句を封じることに最初の頃は成功していました。

実力があれば、家臣たちもそれには文句は言えないでしょう。

ただ長篠合戦で

行くも地獄、引くも地獄

と書きましたが、遅かれ早かれ、強大な織田家と敵対する以上こうした状況になったでしょう。

実力を示さない限り家中の統率がとれないということで、引くわけにはいきません。

結果、長篠で決戦を挑み負けてしまいました。

あまりにも勝ち目が薄い長篠合戦に勝頼様が挑んだのは無能だからではありません。

そうせざるを得なかったんだと思います。

一度権威を失った勝頼様はもはや盛り返すことはできませんでした。

当時武田家という家はそれほど親族・譜代家臣の発言力が大きかったのです。

武田家は互いに協力し、1つにまとまることができなかったがために滅びたのでしょう。

『真田丸』で平さん演じる勝頼様はやたら無念そうな、やるせないようなそんな態度・表情

が多かったですが、きっと当時の勝頼様もそんな心境だったのでしょう。

終焉の地、天目山へ-武田家の滅亡

劇中でもありましたが、木曽義昌の討伐に失敗した勝頼様は新府城にもどり、

その後岩殿城行を決めて、甲斐(山梨)を逃避行します。

もはや、組織的に抵抗できる状況ではありません。

笹子峠のふもとに着いた頃には、織田軍は甲府を占領していました。

もう織田軍はすぐ後ろまで来ています。

距離にして20キロ程度でしょうか。

ここで勝頼様は小山田信茂の裏切りにあい、進むことすらできなくなりました。

勝頼様最後の地は、笹子峠からやや北にある田野という地域です。

ここで、織田軍に補足され奮戦むなしく、切腹したとも打ち取られたとも言われています。

おそらく伴の人数の半数以上は女子供だったのではないでしょうか。

北条家より嫁いできた北条夫人、以下侍女など多数が自決したと伝わっています。

勝頼様親子の首は織田信忠の首実検(首が本物かどうか確かめるもの)をえて

信長のもとに届けられ、その後京都でさらし首になったそうです。

強大な勢力を誇った武田家はこうして滅亡となりました。

信長もこのわずか3か月後に本能寺の変で亡くなることになりますが、

歴史の因果とは恐ろしいものです。

本能寺の変があと1年早かったとしたら、おそらく武田家は勢力を盛り返した
かもしれません。

歴史にIFはありませんが、そんなことを考えるのも歴史の楽しみ方の一つです。
今回で勝頼様を知る人が一人でも増えたら幸いです。

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      2016/02/19